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大阪高等裁判所 昭和61年(行コ)20号 判決 1991年3月26日

控訴人

堀井美吉

松沢力男

右両名訴訟代理人弁護士

宮永堯史

村井禄楼

被控訴人

大阪市長

西尾正也

右訴訟代理人弁護士

中山晴久

高坂敬三

夏住要一郎

間石成人

石井通洋

右訴訟復代理人弁護士

山本崇晶

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の申立て

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人が左の行為を怠ることは違法であることを確認する。

(一) 訴外大阪市旭区地域振興会高殿南連合第二振興町会に対し、原判決添付別紙目録三記載の地蔵像を除去して同目録一記載の土地を大阪市に明け渡せとの請求をすること。

(二) 訴外大阪市旭区地域振興会高殿南連合第四振興町会に対し、同目録四記載の地蔵像を除去して同目録二記載の土地を訴外高殿南校下社会福祉協議会に明け渡せとの請求をすること。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文同旨

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、次のとおり付加訂正するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(訂正)

原判決二枚目裏四行目の「大阪第二住宅」を「大宮第二住宅」に、同一一枚目裏一一行目の「一応地蔵像」を「一心地蔵像」に各改める。

(控訴人らの当審における補足的主張)

一  寺院に安置された地蔵が地蔵菩薩に関する仏教上の教義思想を色濃く残すものであるのに対し、寺院外に存在する地蔵が地域住民の生活の中に溶け込み、民俗化し、そのため仏教としての宗教性が稀薄化してきたと区分してとらえることは、宗教あるいは地蔵信仰の本質を見誤るものであって、両者は共に宗教たる地蔵信仰として同一である。その根拠には、地蔵像あるいは地蔵信仰に関する文献(<証拠>)をみても、寺院をはなれた民間信仰度は「稀薄」という文字はどこにも見出し得ない。また、各種の著作、新聞記事等(<証拠>)をみても、地蔵信仰が庶民階級において隆盛を極めており、寺院外の地蔵が仏教として宗教性が稀薄化してきたとするのは誤りである。

二  刑法一八八条の解釈論として、寺院外に存在する地蔵像が同条所定の礼拝所に該当することについては、判例・学説上異論をみないものであるのに、被控訴人の主張はこれを否定することになるものであり、この点からも誤っている。

三  地蔵信仰が習俗化していることは事実としても、宗教の使命は自己の信じる神仏の救いをより多くの人々とわかちあうことであり、そのために布教活動がなされ、宗教が土着化・習俗化することこそが布教の究極的目的であるから、地蔵信仰が習俗化することは、信仰の稀薄化につながらない。

四  本件各地蔵像の与える宗教的効果については、地蔵像の存在自体に宗教的効果があり、一心地蔵像のように「コミュニティーの場」となるために注目せられる場所に設置され、しかも、「見上げる程の高さである」巨大地蔵は更に宗教的効果も大きく、また、地蔵盆などの習俗行事が加わることによって宗教的効果は更に増すのである。

五  控訴人らが国内の宗教団体一四三団体(内、キリスト教関係一二九)に対してアンケート調査を行った結果得た三六団体からの回答(<証拠>、うちキリスト教関係三二団体)によると、地蔵信仰は宗教であるとするのが二七団体、宗教とはみとめないとするのが二団体、その他六団体であること、地蔵盆等の行事への参加協力に対する対応策について、参加しないよう指導しているとするのが二六団体、なにもしないのとその他が各五団体であること、地蔵盆等の行事の際、個人が内面的圧迫を受けたことを聞いたことがあるか否かについて、聞いたことがあるというのが一二団体、ないとするのが二四団体であることが認められるのであり、これらによっても、控訴人らの主張が裏付けられる。

六  原判決には、目的・効果論の適用に関し、次の問題点がある。

1 原判決は、その目的について主観的要素のみを取り上げているが、主観的意図とは別に、当該行為に宗教的意義が存したか否かを検討すべきであった。

地蔵像の維持そのものが、地域住民の精神生活の中心をなし、土地の貸与も地域住民にとって地蔵に対する功徳の一つと受け取られておれば、単に大阪市の主観的意図のみを問うだけでは不十分である。

2 効果について

(一) 本件では、土地(平成元年地価公示による価格は一平方メートル当たり約四二万円相当である。)の継続的使用貸借であって、長期に特定の宗教に利益を与え続けることとなり、効果の点で無視できない。

(二) 公有地の使用貸借が目的に即した使用状況か否か等の監視等の公権力の過度のかかわりを生み出すことを考慮しなければならない。

(三) 大阪市の本件関与が、住民間に対立と軋轢を生み出している。

(四) 一心地蔵像と大阪市との関係は、それが市営住宅の入口近くに市営住宅を背にして大変目立つ場所に設置されていることからも、市営住宅のシンボルと見られても仕方のない一面がある。一心地蔵像へのこのような土地貸与は、経済的側面においての問題を別にしても精神的側面においては右のようなシンボルとしての地位を与えるものであることは否定できない。

(控訴人らの当審における補足的主張に対する被控訴人の反論)

一  控訴人らの当審における補足的主張一について

被控訴人は、寺院外地蔵が仏教あるいは地蔵信仰と無関係であると主張するものではなく、それが成立宗教たる仏教に由来するものであることは認めているのであるが、ただ、憲法二〇条三項により禁止される宗教活動が国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが、行為の目的及び効果に鑑み、我国の社会的、文化的条件に照らし相当とされる限度を超えるものに限られるのであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいう、との判例の立場に立てば、まず、当該行為の宗教的意義の存否あるいは程度を考える必要があり、宗教的意義の存否あるいは程度を考えるに当たっては、当該行為と、宗教組織や教義教典との関係の有無や程度あるいは宗教的儀式や布教活動の存否や多寡が問題となるものであるところ、寺院外の地蔵と寺院内の地蔵とでは、右の各要素において大きく異なり、したがって、両者の持つ宗教的な意義が類型的にことなるものであると主張し、原判決もこれを認めているというに過ぎない。控訴人ら主張の文献はいずれも地蔵像あるいは地蔵信仰一般に関する宗教学あるいは民俗学の研究文献であって、元来右の如き憲法の解釈論を目的としたものではないのであるから、寺院内の地蔵と寺院外の地蔵の宗教性の比較分析に触れた記載が存在しないことが、控訴人らの主張を裏付けるものでないことは当然である。被控訴人としても、道端や野に安置されている石地蔵が全国至るところに存在することを否定しているわけではないし、そのことと、そこに宗教性が認められるか否かとは全く別の問題なのである。すなわち、後者の問題は、当該の地蔵像について、それが地蔵菩薩に関する仏教上の教義・教典や仏教の宗教組織あるいは布教活動や祭祀とどのように、あるいはどの程度に関連しているかという問題であり、その観点からみるならば、寺院外の地蔵像いわゆる野仏が全国至るところにみられるとしても、右の関連性は極めて乏しいのであるから、宗教性は稀薄であるというべきである。

二  控訴人らの右主張二について

被控訴人としても、本件各地蔵像が一般的宗教感情・習俗あるいは宗教的平穏の対象となっていること、すなわち、刑法一八八条所定の礼拝所に該当することを別段争うものではないし、原判決も、本件各地蔵がその宗教的な意義の稀薄さは別として、礼拝の対象となっていることは判示しているのであるから、控訴人らの右主張は理由がない。

そもそも、地蔵像が同条の礼拝所に該当するとしても、そのことと本件各地蔵に関連して大阪市のなした各行為が憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動に該当するか否かということは全く別問題といわなければならない。なぜならば、同条項により禁止される宗教的活動とは、前記の如きものを指すのであるから、一般的宗教感情・習俗あるいは宗教的平穏を保護する行為であっても、それが必ずしも、右にいう宗教的活動に該当するとは限らないからである。

これを本件についてみれば、大阪市のなした行為が、仮に本件各町会の住民の有していた一般的宗教感情・習俗あるいは宗教的平穏の保持につながるものであったとしても、原判決の判示のとおり、その目的は専ら建替事業の円滑な進行と地域住民の融和の促進という世俗的なものであり、その効果も仏教等特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫・干渉を加えるものでないのであるから、大阪市の行為と宗教とのかかわり合いは、我国の社会的・文化的条件からみて相当の程度を超えるものとは考えられず、憲法二〇条三項が禁止する宗教的活動に該当するものとは考えられないのである。

三  控訴人らの右主張三について

原判決が、地蔵信仰について、仏教としての宗教性が稀薄化してきたと判断しているのは、地蔵信仰が控訴人らのいうような意味、信仰が広汎に定着してきたという意味で土着化・習俗化したという判断を根拠としているのではなく、寺院外の地蔵像は、「一般庶民の間で仏教宗団その他の宗教組織とは無関係に設置され、教義教典化されることも布教活動が行われることもない」という事実や「日常礼拝する人がいるものの、その礼拝は、伝統的に日本人によって礼拝されてきたものに対して習慣的に手を合わしているに過ぎず、各地蔵の行事も年に一回二日間の地蔵盆の行事がなされているだけで、これらの行事は、一般の人々にとっては秋を迎えるころの風物詩として、季節行事と受け止められており、その参加者の意識として右行事に宗教的意識を認めないのが一般的である」といった事実から、寺院外の地蔵像やこれを中心にして行われる行事に対する一般通常人の宗教的意識が稀薄であると判断しているのであるから、右の主張も的外れといわなければならない。

四  控訴人らの右主張四について

ここで問題となる宗教的効果とは、前記判例でいう「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫・干渉等になる」という効果を指すものであるから、地蔵像に宗教的効果があるというためには、例えばそれが存在するが故に仏教等の特定の宗教の援助・助長・促進になり、あるいは、他の宗教に圧迫・干渉を加えるものであるという事実がなければならない。しかるに、ここで控訴人らが指摘している「宗教的効果」とは、要するに、地蔵像が存在し、認識されることによって、一般に親しまれていくということを指しているに過ぎず、それが右にいう宗教的効果をもたらすものであることを裏付ける事実の主張は全くないといってよい。地蔵像が親しまれることと、特定の宗教、ここでは仏教が広汎に定着するということとは全く別のことであって、控訴人らの主張はこれを混同するものといわねばならない。このことは、例えば、クリスマスや節分、七夕や門松など宗教的起源を有する行事や儀式が盛んに行われたとしても、そのことだけで、その起源となった特定の宗教が援助・助長・促進の効果を受け、あるいは他の宗教が圧迫・干渉を受けるといった効果が存在しないということを考えれば明らかなところである。

五  控訴人らの右主張五について

控訴人ら主張のアンケート調査については、次のような欠陥があり、本件の判断に資するものでないことは明白である。

1 本件では、前述のとおり一般的な国民あるいは地域住民のレベルにおける意識が問題とされるのであるから、アンケートの対象は広く一般人を対象とすべきである。しかるに、本件アンケートは対象者を宗教団体に限定しており、それ自体不適当である上、そもそも宗教団体は本件についてはいわば利害当事者ともいうべきものであるから、この点において更に不当といわなければならない。

2 回答の総数は僅か三六団体(回収率四分の一)で、しかもその殆どがキリスト教関係の団体であり、また、回答者の資格も不明である。

3 設問及び回答の選択肢が抽象的あるいは簡単であるため、回答の趣旨が明確に把握できない。

六  控訴人らの右主張六について

1 同主張六1については、特に異論はないが、後記七項で述べるとおり、地蔵信仰や地蔵祭りの宗教的意義が極めて稀薄であることが、客観的資料により明らかにされた以上、本件各行為の目的の宗教的意義は客観的にみても乏しいものといわなければならない。

2(一) 同主張六2(一)については、そもそも憲法二〇条三項の宗教的活動であるか否かということは行為の性質の問題であって、回数あるいは金額といった量の問題であるとは考えられないということができる。

(二) 同主張六2(二)について、その論旨は、監視等を巡って公権力が宗教自体とかかわることが問題とされているものと解されるが、大阪市行政財産使用許可書(<証拠>)第二条(用途)の記載から明らかなように、右使用貸借の目的は「地蔵像敷地」という客観的、一義的なものであり、その監視を巡って、地蔵信仰あるいは仏教思想の解釈といった「宗教自体」とのかかわりを生ずる余地は全くないものといってよいのであるから、右の論旨には理由がない。

(三) 同主張六2(三)については、その主張がどのような事実を指しているのか不明である。仮に右主張が本件各地蔵像の建立によって地域のコミュニティが破壊されているということであれば、これは事実に基づくものではない。すなわち、控訴人らが本件各地蔵像の建立に反対の意思を有していることは明らかであるが、集団としての地元自治会の意思決定や行動に反対者がいること自体はごく一般的なことであって、反対者がいることと地域住民の間のコミュニティが破壊されることとは、全く別の事柄である。しかるところ、本件において、本件各地蔵像の建立を巡って、そのような事態が生じたことを裏付ける証拠は全く存在しない。

(四) 同主張六2(四)については、その論旨は、見上げる程の高さである地蔵像が控訴人ら主張のような位置に設置されているが故に一般人に対し与える宗教的効果・影響が大きいという趣旨と解されるが、後記七に述べるように、地蔵信仰あるいは地蔵祭り自体の宗教的意義が極めて稀薄なのであるから、地蔵像の建立される位置によって、その宗教的効果あるいは影響が左右されることはまず考え難いところといわねばならないのであって、右論旨も理由がない。

七  本件各行為が憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動に該当するか否かを判断するには、地蔵像に対する一般人の宗教的評価や地蔵像が一般人に与える効果、影響を把握するに足りる客観的資料が必要であるところ、大阪市立大学文学部助教授森田洋司が、被控訴人の依頼により、昭和六三年二月九日現在の大阪市に居住している二〇才以上の市民一九五万五四六八人を対象とし、確率比例抽出法に基づいて抽出した一、〇〇〇標本についてなした、(1) 地蔵信仰は現代社会において宗教と認識されているか、あるいは、習俗と認識されているかについて、(2) 地蔵像や地蔵盆の存在が宗教の助長、援助になるかどうかについて、(3)地蔵像や地蔵盆の存在が地域のコミュニティの醸成の目的に役立つかどうかについての調査及び分析の結果(<証拠>)を要約すると、以下のとおりである。

1 地蔵信仰の宗教的特性

(一) 日本人の宗教意識は、(1)道徳性、(2)霊魂観念、(3)加護観念、(4)祖先崇拝、(5)反近代合理主義の五つの因子から構成されていると考えられるところ、地蔵を信仰するかどうかを予測するに足る変数は「加護観念」すなわち「守られている」、「守ってもらう」という現世利益的な意識だけである。したがって、「祖先崇拝」や「霊魂観念」を中核とする仏教信仰とは異質であり、しかも、「道徳性」が弱いため、人々の思想・信条等に介入して影響力をあたえることが少なく、排他的特質が稀薄である。

(二) 右の五つの特性とは異なる宗教的意識としてアニミズムや超自然的な力への畏怖・畏敬の念が考えられるが、これらの宗教的意識は習俗的な民間信仰に組み込まれ迷信・俗信として存在する。地蔵信仰はこのような迷信・俗信との結びつきが強いが、迷信・俗信は本来の宗教信仰とは異質なものであるため、地蔵信仰もまた宗教的な性格が稀薄化することとなっている。

(三) 次に、日本人の宗教観念が汎神論的な性格を有することに着目し、地蔵信仰と他の信仰との重複性を検討すると、地蔵は他の宗教を信仰している多くの人から親しみを持たれているだけでなく、一切の信仰に親しみを持っていない人にも親近感を与えている。そして、その結びつきの在り方を宗教活動の面から更に探ると、地蔵像を信仰する者は「入信勧誘」、「信仰グループ参加」、「聖書・仏典の閲読」、「おつとめ」といった宗教的性格の濃厚な行動をとらない傾向がある。地蔵祭りに参加する行動は、宗教的色彩の濃厚な行動群をとらないことと強く関係しながら、初詣やお彼岸、お盆の墓参といった日本人の生活に深く浸透している伝統行事と深く結びつき、同じ行動類型として分類することができる。

このことから、現代の地蔵信仰やそれに伴う地蔵祭りは、本来の仏教とのかかわりを薄めるとともに、仏教の教義、教典の枠を越えて、広く他宗教を信じている人や信仰を全く持たない人々にも普及するとともに、元々の仏教信仰とは異質な民間信仰的要素を深め、日本人の生活感情のなかに溶け込んだ習俗となっていること、とりわけ、地蔵祭りは、多くの人々には、日本の伝統行事として認識されており、季節の風物詩として日本人の生活文化の一部となっていることが明らかとなった。

2 地蔵信仰の特定宗教に及ぼす影響

(一) 前項で述べた地蔵信仰の特性からは、地蔵信仰が特定の宗教の援助、助長・圧迫・干渉になる可能性は極めて少ないと考えられる。

(二) これを具体的に検討するため、地蔵像のある地域とない地域との間で特定の宗教にまつわる行動(「神仏の世話」、「祭礼参詣」、「初詣」、「お守り」、「墓参り」、「おつとめ」、「聖書・仏典」、「信仰グループ参加」、「入信勧誘」、「安全祈願」)との関連性を調査した結果、そのいずれについても、統計的に有意な差は検出されず、このことから、町内に地蔵像の存在することは、必ずしも、その地域内の住民の宗教的行動が高まっていることと関係するものではないこと、つまり他の宗教を助長・援助することになっていないことが裏付けられる。

3 地蔵祭りの機能

地蔵盆・地蔵祭りに関する意識調査の結果によれば、多くの地域住民によって子供の行事として位置づけられ、更には豆まき・七夕・盆踊りのような伝統行事あるいは町内会や子供会の年中行事と理解されており、宗教的性格の風化が示されている。

更に、地蔵祭りに参加した人は参加したことのない人と比べた場合、明らかに近所付き合いの程度が親密であることから、地蔵盆・地蔵祭りが地域住民の間の親睦をはかる上でコミュニティ資源として一定の機能を果たしていることが示されている。

以上の調査及び分析の結果によれば、本件各地蔵像に対する大阪市住民一般の宗教的評価は低く、本件各地蔵像を建立した各自治会関係者の宗教的意識も薄く、また、本件各地蔵像が一般人に与えた宗教的効果・影響も殆んどないと解される。しかも、大阪市が自ら本件各地蔵像を建立したわけではなく、住宅の建替事業の円滑化等の非宗教的な目的のためにその用地を貸与したにすぎないのである。したがって、このような大阪市の行為は、前記判例に照らし、憲法二〇条三項により禁止される宗教活動に該当しないこと明らかであるといわなければならない。

第三  証拠<省略>

理由

当裁判所も控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから棄却すべきものと判断するものであるが、その理由は、次のとおり付加訂正するほかは原判決理由の説示と同一であるから、これを引用する。

一原判決二七枚目表一〇行目の「乙第一号証」の前に「第三六ないし第四六号証、第六五号証、第七七ないし第八二号証、」を、同二八枚目表七行目末尾に「弁論の全趣旨により本件各地蔵像及びその付近の状況を撮影したビデオ・テープであると認められる検甲第一五号証、」を各加え、同末行の「鳥越憲一郎」を「鳥越憲三郎」に改め、その次に「、当審証人小林顯英、同信楽峻麿」を加える。

二同二八枚目裏五行目の「組識」を「組織」に、同一一行目の「無事」を「死者の慰霊と共に地域の」に各改め、同三〇枚目表二行目の「大阪市は、」の次に「後記抗議文の受理後直ちに、」を加え、同四行目の「間もなく」を「数日後には」に改め、同三一枚目裏一〇行目の「募り、」の次に「同年一一月、」を加える。

三同三二枚目裏九、一〇行目の「積極的な布教活動も行われていない。」を「また、これに依拠して特定の個人又は団体による布教活動が行われているものではない。」に、同三三枚目裏九行目の「読経をし」を「自己の所属する浄土真宗本願寺派の経典を唱え(同宗派には地蔵信仰は含まれないので、地蔵に関する経典は唱えない。)」に各改める。

四同三六枚目裏四行目の「寺院以外」を「寺院外」に、同三七枚目裏一二行目の「甲第一号証」を「甲第一、第四九、第五三、第六一号証」に各改める。

五同三八枚目表一一行目の「地蔵像」を「本件各地蔵像」に、同一二行目の「市有地」を「市有地たる本件各土地」に、同三九枚目表六行目の「寺院以外」を「寺院外」に、同行の「地蔵」を「地蔵像」に、同一〇、一一行目の「民俗化」を「習俗化」に各改め、同一一行目と一二行目との間に次の説示を挿入する。

「ところで、控訴人らは、地蔵を寺院内の地蔵と寺院外の地蔵と区別して、寺院外の地蔵が仏教として宗教性が稀薄化してきたとするのは誤りであると主張(控訴人らの当審における補足的主張一)するが、前段に説示するところは、寺院外の地蔵が仏教あるいは地蔵信仰と無関係であるとまで言うものではなく、それが成立宗教たる仏教に由来するものであることまで否定するものではなく、ただ、大阪市の本件各行為が憲法二〇条三項により禁止される宗教活動にあたるか否かについて判断するに当たっては、前記基準に照らし、まず、当該行為の宗教的意義の存否あるいは程度を考える必要があり、宗教的意義の存否あるいは程度を考えるに当たっては、当該行為と、宗教組織や教義教典との関係の有無や程度あるいは宗教的儀式や布教活動の存否や多寡を問題としなければならないものであるところ、寺院外の地蔵と寺院内の地蔵とでは、右の各要素において大きく異なり、したがって、両者の持つ宗教的な意義が類型的に異なるものがあることを言わんとするものである。控訴人ら主張の文献はいずれも地蔵像あるいは地蔵信仰一般に関する宗教学あるいは民俗学の研究文献であって、元来右の如き憲法の解釈論を目的としたものではないのであるから、これら文献に寺院内の地蔵と寺院外の地蔵の宗教性の比較分析に触れた記載の存在しないことをもって、前記基準に照らすに当り、前示の差異を問擬することができないものとはなし得ないことは当然である。そしてここに言うのは、道端や野に安置されている石地蔵が全国至るところに存在する寺院外地蔵像の帯有する宗教性をどう捉えるかという問題であり、それは、当該の地蔵像について、それが地蔵菩薩に関する仏教上の教義・教典や仏教の宗教組織あるいは布教活動や祭祀とどのように、あるいはどの程度に関連しているかという問題であり、その観点からみるならば、いわゆる野仏など、全国至るところにみられる寺院外の地蔵像においては右の関連性は極めて乏しいのであるから、宗教性は稀薄であるということができる。したがって、控訴人らの右主張は採用できない。

更に、控訴人らは、刑法一八八条の解釈論として、寺院外に存在する地蔵像が同条所定の礼拝所に該当することについては、判例・学説上異論をみないものであるのに、前示の見解はこれを否定することになるものであると主張(控訴人らの右主張二)するが、先の説示は本件各地蔵像が一般的宗教感情・習俗あるいは宗教的平穏の対象になっていること、すなわち、刑法一八八条所定の礼拝所に該当することを否定しようとするものではないし、本件各地蔵がその宗教的な意義の稀薄さは別として、礼拝の対象となっていることは前記1(三)(1)に認定しているところであるし、刑法一八八条の保護法益の対象としては同列に扱われるということから、当然に、前記基準に照らして判断する場面において前示した区別を論ずることができないものということにもならないのであるから、控訴人らの右主張は理由がない。

なお、控訴人らの、地蔵信仰が習俗化することは信仰の稀薄化につながらないとの主張(控訴人らの右主張三)は、被控訴人のこれに対する反論のとおり的外れであるから、採用の限りでない。」

六同三九枚目裏四行目の「同様の功徳を求める思想」を「同様に地域の無事安全を祈願する目的」に、同七、八行目の「伝統的に日本人によって礼拝されてきたもの」を「土俗的民間信仰の対象としての地蔵像」に各改め、同四〇枚目表二行目の「流布した」の次に「土俗的民間信仰としての」を加え、同三行目の「そのもの」を「を具現するもの」と改める。

七同四〇枚目表四行目と五行目との間に次の説示を挿入する。

「ところで、控訴人らは、本件各地蔵像の与える宗教的効果については、地蔵像の存在自体に宗教的効果があるとの主張(控訴人らの右主張四)するけれども、本件各地蔵自体が前記の如く礼拝所に当たるとしても、ここで問題となる宗教的効果とは、前記基準でいう「宗教に対する援助・助長・促進又は圧迫・干渉になる」という効果を指すものであるから、本件各地蔵像に宗教的効果があるというためには、本件各地蔵自体の規模及び位置によって仏教等の特定の宗教の援助・助長・促進になり、あるいは他の宗教に圧迫・干渉を加えるものであるという事実がなければならないところ、一心地蔵像は控訴人らが巨大地蔵と指摘する各仏像(<証拠>)とはその規模において格段の径庭があり、これらと同一視することはできず、他にこれを裏付けるに足りる事実は見当たらない。しかし、右にいう宗教的効果の有無の判断は、そこにおいて行われる祭祀、行事等の有無及び内容と密接不可分の関係にあるものと解されるとはいえ、本件各地蔵像においては、前認定のとおり年一回二日間、既に季節の風物詩として習俗化した地蔵盆の行事が行われているだけであるから、これをも加味しても、右基準に該当する宗教的効果をあげているとは到底認めることができず、控訴人らの右主張も採用できない。

また、控訴人らは、控訴人らが国内の宗教団体に対して行ったアンケート調査結果(<証拠>)により、自らの主張を裏付けようとしている(控訴人らの右主張五)が、右アンケート調査については、被控訴人が反論するような欠陥があり、本件の判断に資することができないものといわねばならない。

しかるに、<証拠>によれば、控訴人らの当審における補足的主張に対する被控訴人の反論七項に記載のとおりの調査・分析の結果がでたことが認められ、右認定事実によれば、本件各地蔵像に対する大阪市住民一般の宗教的評価は低く、本件各地蔵像を建立した各自治会関係者の宗教的意識も薄く、また、本件各地蔵像が一般人に与えた宗教的効果・影響も殆どないと解される。」

八同四〇枚目裏八行目全部を「促進を目的とするそれ自体は何ら宗教的意義を帯びないものであったところ、当該町会の方で右目的を達する手段として、本件各地蔵像の建立・移設を選択したため、間接的に宗教とのかかわり合いを生ずる行為となったものと認められる。」と改め、改行して同九行目との間に次の説示を挿入する。

「もっとも、控訴人らは、右目的につき、主観的意図とは別に、当該行為に宗教的意義が存したか否か、地蔵像の維持そのものが、地域住民の精神生活の中心をなし、土地の貸与も地域住民にとって地蔵に対する功徳の一つと受け取られておれば、単に大阪市の主観的意図のみを問うだけでは不十分であると主張(控訴人らの右主張六1)するが、この点については、大阪市がなした本件各行為である市有地の目的外使用許可及び使用転貸借することの承諾は、それ自体非宗教的行為であり、原則として憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」とは無関係であるところ、その使用方法としての地蔵像が設置されたが故に宗教とかかわりを有することとなったものであるが、前認定(本判決七項判示)のとおり、地蔵信仰や地蔵祭りの宗教的意義が極めて稀薄であることが明らかにされた以上、大阪市のなした本件各行為の目的の宗教的意義は客観的にみても乏しいものといわなければならない。

九原判決四三枚目裏三行目の「大阪市」から同八行目の「加える」までを「大阪市が各町会に本件各地蔵像の敷地として市有地たる本件各土地を無償貸与した行為は、その直接の目的は、各町会を中心とする地域のコミュニティを促進するというそれ自体としては非宗教的なものでありながら、その手段として本件各地蔵像が設置されることにより宗教とかかわり合いをもつに至ったものではあるが、その結果において仏教等特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加える様な効果を生ぜしめている」と改め、同四四枚目表一行目と二行目との間に次の説示を加える。

「しかるところ、控訴人は、大阪市のなした本件各行為の結果について問題点を指摘し右認定を支持できない旨主張(控訴人らの右主張六2(一)ないし(四))するが、同主張六2(一)ないし(三)の採用し難いことは被控訴人の反論(右主張に対する被控訴人の反論六2(一)ないし(三))のとおりであり、同主張六2(四)については、その論旨は、見上げる程の高さである地蔵像が控訴人ら主張のような位置に設置されているが故に一般人に対し与える宗教的効果・影響が大きいという趣旨と解されるが、前認定のとおり、地蔵信仰あるいは地蔵祭り自体並びに本件各地蔵像の宗教的意義が極めて稀薄なのであり、一心地蔵像自体の位置及び規模によって、その宗教的効果あるいは影響が左右されることはまず考え難いところといわねばならないのであって、右論旨も理由がない。」

よって、原判決は相当であって本件控訴は理由がないから棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官潮久郎 裁判官鐘尾彰文 裁判官村岡泰行)

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